由緒

当社は長野県長野市の北部、三登山みとやま)の麓に鎮座し、本殿、祝詞殿(のりとでん)、拝殿、神楽殿(かぐらでん)、社務所等を配置し神域を構成しています。

 

社伝によると当社の御神体は霊石と伝えられいます。九州福岡県怡土郡(いとぐん)蚊田(かだ)の里から運ばれてきた鎮懐石ちんかいせき)と伝えられ、神功皇后(じんぐうこうごうが三韓征伐(さんかんせいばつ)の折、皇子應神天皇おうじんてんのう)のご誕生を遅らせられるため腰につけられた霊石であると伝えられています。

 この霊石を源義家が陸奥征伐に陣中の守護神として携えて出陣し、戦功をあげた後その子義隆に授けました。仁平年間(1150)に現在の地に、霊石に縁がある九州蚊田の里の地名を取り蚊里田神社かりたじんじゃ)として霊石を祀り創建したと伝えられています。

 

治承四年(1180)、義隆の子頼隆が源頼朝から現在の若槻東条、浅川東条、押田及び旧若槻村の大部分を含めた若槻庄を与えられ、文治元年(1185)に地頭に任ぜられて源氏の守護神の八幡様を祀るよう頼朝に命じられ、霊石(鎮壊石)を御神体とし蚊里田八幡宮として祀られたと云われています。

 

以来、蚊里田八幡宮の御神体である霊石(鎮懐石)は桐の箱に納めて毎年58日の春季例大祭に、お唐櫃からひつ)に納めて神社に移し奉り、宮司が奥社おくしゃ)に安置し厳かに神事を行ってきています。

 

古来からの地域信仰の一つとして、霊石を形どって造った石や木を神に捧げ、生殖の意から農作物の豊作を願い、ひいては子宝・安産・性病その他の病気の平癒(へいゆ)が祈られました。その古い石や木が数多く残されております。

 

古文書よると文久2年(1862316日、善光寺大本願の上人様が当社に参拝され、その年の春季例大祭には本殿に紫縮緬(むらさきちりめん)の幕と高張提灯一対を奉納されました。以後破損の折には新品の奉納を戴いてきています。その故をもって毎年58日の大祭には大本願様の参拝をいただいています。

 

春季例大祭は、お八日(ようか)と称し親しまれており、善光寺平一円の春の三大祭の一つに数えられています。また、当日行われる奉納相撲は150年以上の歴史を数えます(※平成10年より春の例大祭は55日に斎行しています)。

 

~善光寺平春の三大祭~ 

 正覚院(しょうがくいん)(長野市安茂里大門 観音まつり 418日)

 西厳寺(さいごんじ)(長野市長沼 蓮如忌 425日)

 蚊里田八幡宮(春季例大祭 55日)

 

鎮壊石について

鎮懐石とは『お産を遅らせるために身体につける石』であり、腹部をこすったり、腰に下げたり、又は陰部にはさむというような使われ方もあったと伝えられています。

 

また、鎮懐石は生殖に関連する石であり、古代において農作物の豊作を祈願して神に奉げることもありました。こうしたことから鎮懐石は安産、子宝、また性病の神ともなりました。

 

神功皇后の鎮懐石伝説は北九州地方にも伝えられております。古事記、日本書紀、万葉集、筑前国風土記等にも鎮懐石に関する記述が認められますが、その姿形についてはいずれもはっきりとはしていません。しかしながら当社の鎮懐石は男根石と伝えられています。

 

七反幟(ななたんのぼり)

春季例大祭で掲げられる七反(ななたん)の大幟(おおのぼり)は、佐久間象山(さくまぞうざん)先生の筆で多くの人々に知られているところです。

嘉永七年(1854)の揮毫。現在は社宝として筆代わりに使用した箒と共に大切に保管されています。

 

  威稜扶宇宙(いりょううちゅうをたすけ)恩眷煦生霊(おんけんせいれいをくす)

 

意味:八幡大神の御威光で宇宙が安定している その恵みが生物の上に行き亘っている