神社のそもそも

神社とは神道の神々を祀るために設けられた建物、または施設の総称をいいます。古くからヤシロ(社)、ミヤ(宮)、モリ(杜)、ホコラ(祠)などと呼ばれています。

 

神社には神様の鎮まる本殿の前に捧げ物を供え祝詞を奏上する幣殿(へいでん)、神様への供え物である神饌(しんせん)を整える神饌所(しんせんじょ)、参拝者が拝礼祈願する拝殿(はいでん)、神楽や舞を奉納する神楽殿(かぐらでん)などがあり、これらを囲む瑞垣(みずがき)や玉垣(たまがき)、心身を清める手水舎(てみずしゃ)、神職が執務する社務所、集会を行う参集殿、聖域の門としての鳥居などが建ちます。多くの神社は全域が緑の森に囲まれており、各種建造物と樹木が一体となってその機能と景観を保っています。

 

一般に神社のもともとの形態は必ずしも社殿があった訳ではありませんでした。

 

年間のお祭り毎に霊地として神聖視される場所、すなわち里を見下ろす山の麓や、清らかな川や泉のほとり、明るく神々しい森などに神籬(ひもろぎ:臨時に神様が降臨される榊などの常緑樹)または磐座(いわくら:同じく自然石)を設けて神霊をお迎えし、終わればお送りするのが常でした。聖地はみだりに人の進入を許さない禁足地で、注連縄を張るなどして他の土地とは区別をされていたのです。

 

ヤシロの語源としては屋代とする説が最も有力視されています。これは苗代が苗を育てる場所、網代が網を干す場所であるように、祭りに際し臨時の小屋を建てる場所の事を意味します。祭りは一般に野外で行われましたが、祭壇などを風雨から守るために簡易な覆屋を設けるようになり、さらに祭りの後もその仮小屋を撤去せずに常設のものとしたのが社殿の発生だと考えられています。こうした変化に関連して、神も毎年時期を定めて降臨するという観念から、神殿に常在して人々を守る…という信仰へと変化していきました。

 

神宮(伊勢神宮)や出雲大社は早くから社殿を伴ったとされていますが、有名な社でも当初は聖地だけだった例に春日神社(春日大社)があります。和銅二年(709)に奈良の三笠山の麓に藤原氏の氏神として創立され年々の祭を行いましたが、社殿が造営されたのは約60年後の神護景雲二年(768)のことでした。

 

また、ミヤ(宮)の語源は御屋とする説が有力で、建物に敬称のミを添えたものです。しかしながら平安時代前期までに宮の称号が許された神社は少なく、神宮の内宮、外宮をはじめ別宮五社と、下総の香取神宮、常陸の鹿島神宮、筑前の筥崎宮、豊前の宇佐宮など十一社に限られていました。

 

自然の中に足を踏み入れた時、その景観の美しさに神々しさを感じたという経験をお持ちの方は少なくないのではないかと思います。今では住宅やビルに囲まれている神社も、創建当時はそんな神々が住まうにふさわしいと感じられた土地だったのではないでしょうか。神様がその地に祀られた当時の風景に想いを馳せ、想像してみるのも面白いのではないでしょうか。